サンシャインシティ地下の謎を解く。巨大変電所と「巣鴨プリズン」を結ぶ奇妙なミステリー

池袋のランドマークとして年間3000万人が訪れるサンシャインシティの地下に、一般人が入れない巨大な空間がある。地下変電所の存在を口外するな、という話が都市伝説として語られているその場所は、実際に地下3階の駐車場に足を踏み入れると、なぜか全体の3割ほどしか駐車スペースとして使われていない異様な構造をしています。

この記事は、サンシャインシティの地下に何があるのか気になったことがある人、巣鴨プリズンという場所の歴史に興味がある人に向けて書いています。都市伝説を怪談として消費するのではなく、確認できる事実を積み上げながら、この場所が持つ重さを一緒に整理していきたいと思います。

サンシャインシティの地下に、何かがある

サンシャインシティの「地下の謎」は、大きく分けて3つのレイヤーで語られています。地下変電所の口外禁止という噂、地下3階に存在する広大な立入禁止区画、そして地下5階まで続くとされるエレベーターのボタン。これらは無関係な話ではなく、おそらく同じひとつの構造の話をそれぞれ別の角度から見たものです。

「地下に変電所がある。口外するな」という話の出どころ

ネットで「サンシャインシティ 地下 変電所」と検索すると、いくつかの証言が出てきます。一番多いのは「建物の関係者や納品業者から聞いた」という形の話で、「地下に東京電力の変電所がある、外に言うな」と念押しされたというものです。

「帝都東京・隠された地下網の秘密」という書籍の中で、サンシャインシティの地下に非公開の変電所が存在するという話が紹介されており、これが都市伝説として広まる出発点のひとつになっています。

なぜ口外してはならないのかという理由は、どこにも明記されていません。

変電所そのものは電力供給上の重要施設であり、セキュリティの観点から立入禁止・非公開とされているケースは珍しくありません。東京の地下には大規模な変電設備が複数存在し、その場所や詳細が公開されていないこと自体は特別な話ではない。ただ、それを「口外禁止」という形で関係者に伝えていたとすれば、普通の変電所よりも機密性が高い扱いを受けていたことになります。

地下3階に存在する「立入禁止の謎空間」を実際に歩くと

実際に地下3階の駐車場を歩いた人の記録が残っています。そこで気づくのは、広大なフロア面積のわりに、車が止まれるスペースが全体の一部しかないということです。中央部に近い区画が大きく「非常時以外立入禁止」とされた扉と壁で閉ざされており、その奥に何があるのかはわかりません。

駐車場として見れば明らかに使い方が非効率です。不動産価値の高い都心の地下空間をわざわざ「空け」ておく理由があるとしたら、そこに何か別の用途があると考えるのが自然な流れです。

扉の向こうに何があるかを外から確認する手段はありません。ただ、その扉が複数個所に存在し、中央部の広い区画を囲むように配置されているという構造は、単なる設備室や倉庫とは少し違う規模感を感じさせます。

地下5階まで本当にあるのか?エレベーターのボタンが示すもの

サンシャインシティの一部のエレベーターに「地下4・5階」のボタンが存在するという目撃証言があります。一般に公開されている地下フロアは地下3階までなので、案内図には載っていない階が物理的には存在していることになります。

ただし、これについては合理的な説明も成り立ちます。大規模商業施設の地下には設備フロアが設けられることは珍しくなく、駐車場より下の階に電気・空調・給排水設備をまとめた機械室が存在することは一般的です。変電所のような重要施設をそこに置いているとしたら、エレベーターのボタンが存在することも、一般フロアとして開放されていないことも、一応の説明がつきます。

地下構造の全容を外から知る方法はありません。でも「存在しない階のボタンがある」という事実は、この建物の地下がいわゆる「普通の商業施設の地下」より深く、複雑であることを示しています。

そもそも巣鴨プリズンとは何だったのか?

サンシャインシティの地下の謎を理解するためには、この場所の歴史を知っておく必要があります。現在の派手な商業施設が建つ前に、ここに何があったのかという話です。巣鴨プリズンの歴史は、建物の変遷だけでなく、そこで生きた人々の姿として知っておくとより実感が持てます。

時期施設名主な用途
明治期〜戦前巣鴨監獄→東京拘置所一般犯罪者の収容
1945〜1952年スガモプリズン(GHQ接収)戦争犯罪者の収容
1952〜1958年巣鴨刑務所戦犯・一般受刑者
1971年解体建物全撤去
1978年サンシャインシティ開業商業・オフィス複合施設

東京拘置所からGHQ接収へ。施設が変わった経緯

現在のサンシャインシティがある東池袋の土地には、明治時代から拘置施設が置かれていました。「巣鴨監獄」という名称で始まり、のちに「東京拘置所」と改称されています。

1945年の終戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)がこの施設を接収し、「スガモプリズン」として戦争犯罪者の収容施設に転用しました。接収の対象にこの場所が選ばれた理由は明確には記録されていませんが、規模の大きさと首都・東京における立地の良さが条件として合致していたと考えられています。

収容された人数は多いときで約2000人。A級戦犯からBC級戦犯まで、さらに解除後には一般の受刑者も収容される大規模な施設でした。

A級戦犯とBC級戦犯が同じ房にいた、奇妙な収容生活

スガモプリズンの収容状況として記録に残っているのは、当初A級戦犯とBC級戦犯が同じ雑居房に収容されていたという事実です。

つまり、東條英機元首相のような戦時指導者と、現地の戦場で命令を実行した末端の軍人が、同じ空間で食事の配給列に並んでいた。東條英機が列の順番を待っていた、という記録は、この場所が「権力の序列を剥ぎ取った空間」だったことを端的に示しています。

外国の映画に出てくるような「悪の首謀者の独房」ではなく、どこか日常的な拘置施設として機能していたという事実が、かえってこの場所の持つ重さを増幅させます。

1948年12月23日、絞首刑が執行された夜

A級戦犯7名の死刑が執行されたのは1948年12月23日の深夜から未明にかけてです。東條英機をはじめとする7名がこの施設内の刑場で絞首刑に処されました。

その後もBC級戦犯の処刑がこの地で続き、絞首刑53名、銃殺刑1名の合計54名のBC級戦犯がここで命を落としています。A級7名と合わせると、この敷地内で処刑された人数は61名にのぼります。

処刑が行われた刑場の場所は、現在の東池袋中央公園の一角と重なっています。後のセクションで詳しく触れますが、芝生と遊具がある公園のある区画が、当時の絞首台の位置と一致しているという話です。

跡地にサンシャイン60が建てられた理由

処刑施設の跡地に、なぜあれほど派手な商業施設が建ったのか。そこには1970年代の池袋という街の事情と、「負の歴史を上書きする」という再開発の意図が重なっています。

閉鎖から開業まで20年かかった池袋再開発の経緯

プリズンとしての機能が停止したのが1958年。建物の解体が完了したのが1971年。そこからサンシャインシティが開業するまでにさらに7年かかっています。

敷地の広さが課題のひとつでした。旧プリズンの敷地は非常に広大で、現在のサンシャインシティ本体だけでなく、その周囲に造幣局東京支局が存在していたほどです。造幣局が大宮に移転してはじめて、一帯の再開発が本格的に動き出しました。

池袋は1970年代、西武百貨店や東武百貨店を中心に急速に発展していた時期と重なります。副都心として整備される流れの中で、東池袋の広大な土地がようやく商業・オフィス複合施設として生まれ変わったのが1978年です。

日本一の高さ239.7mで「明るい未来」を演出した設計

サンシャイン60は竣工時点で高さ239.7m、地上60階。完成した1978年はアジアで最も高いビルでした。1990年に東京都庁ビルに抜かれるまでの12年間、日本一の高さを誇っていました。

「サンシャイン」という名前には意図があります。

処刑が行われた「影の場所」を、太陽の光のような存在で上書きする。名付けの方向性として、当時の開発関係者がそういう思想を持っていたかどうかは記録がないのでわかりません。ただ、高さと明るさを前面に押し出した名前とコンセプトは、この土地の歴史とは真逆のイメージを打ち出しています。

地下駐車場が公園の下まで広がる、おかしな設計

サンシャインシティの地下駐車場は、建物の直下だけでなく、隣接する東池袋中央公園の地下部分まで延びているとされています。

公園の地下まで掘り下げた駐車場を設計するのは、技術的にはもちろん可能です。ただ、なぜ公園下にまで駐車スペースが必要だったのかという合理的な説明は見当たりません。

かつてのプリズン施設が地下にも構造物を持っていたとしたら、解体後の再開発でその地下部分が活用または接続された可能性もゼロではありません。現状確認できるのは「駐車場が公園下まで広がっている」という事実だけですが、地下変電所の位置との関係を考えると、気になる配置ではあります。

「13階段」の都市伝説は本当なのか?

サンシャインシティと巣鴨プリズンの話を調べると、必ずと言っていいほど出てくるのが「13階段」の話です。処刑台への階段が13段だったという都市伝説が広まっていますが、これは事実と少しずれています。整理してみます。

巣鴨プリズンの絞首台と「13段」という噂の起源

「13階段」という言葉は、小説のタイトルや映画の題材としても知られており、絞首刑の処刑台に至る階段が13段あるという話として語られています。巣鴨プリズンの絞首台にも「13段の階段があった」という噂が根強く存在します。

この話は、アメリカやヨーロッパの絞首台に「13段の階段を持つ処刑台」が実在したことに由来しています。13という数字が不吉とされる文化と結びついて、絞首刑のイメージと固定化されていきました。

日本の絞首台は地下に落下するシステムだった

ただし、日本の絞首台の構造はこれとは異なります。

日本の絞首刑は、罪人が台の上に立ち、床のハッチが開いて下方に落下するという設計です。「階段を上って台の上に立つ」という構造はありますが、その階段が必ず13段だったという記録はありません。

「13段の階段が地下に今も残っている」という話は、日本の絞首台の構造としては成立しにくいのです。床が開いて下に落ちる仕組みの場合、地下空間は「落下を受け止める空間」であり、そこに至る階段は地下から処刑室へ上がる形になります。

「13階段が地下に残っている」という話は、日本の絞首台の構造と合いません。

都市伝説が語り継がれる理由

正確ではないとわかっていても、13階段の話は消えません。それはなぜか。

怖い話が事実に基づいている必要は、実はありません。「この場所で人が死んだ」という確かな歴史があるとき、細部が誇張されたり、別の話が混入したりしながら語り継がれることで、記憶が場所に定着していく。13階段の噂は、あの処刑があった場所を「忘れないための装置」として機能しているとも見えます。

都市伝説には、歴史を記憶する別の形という側面があります。それが誇張でも、場所と事実を結びつけようとする人間の自然な行為でもあります。

東池袋中央公園が「処刑場跡地」である話

サンシャインシティに隣接する東池袋中央公園は、現在は子どもが遊び、人々が芝生でくつろぐ公共の広場です。ただ、この公園の一角に、その場所の過去を今に伝える石碑が建っています。

絞首台があった場所に今は芝生と遊具がある

当時の巣鴨プリズンの見取り図と現在のGoogleマップを重ねると、刑場(絞首台が置かれていた場所)は現在の東池袋中央公園の一角と正確に重なります。

子どもたちが走り回り、昼休みに会社員がベンチで弁当を食べるその場所で、1948年から断続的に処刑が行われていました。知らずに通り過ぎる人がほとんどです。それが悪いことだとは言えませんが、こういう事実が地面の下に埋もれているという感覚は、知ってから訪れると確かに変わります。

「永久平和を願って」と刻まれた石碑の場所と意味

公園の一角に、花崗岩でできた石碑が建っています。表面に刻まれているのは「永久平和を願って」という言葉だけで、一見するとただの記念碑のように見えます。

裏面には次のような文章が刻まれています。

「第二次世界大戦後、東京市ヶ谷において極東国際軍事裁判所が課した刑及び他の連合国戦争犯罪法廷が課した一部の刑が、この地で執行された。戦争による悲劇を再びくりかえさないため、この地を前述の遺跡とし、この碑を建立する。昭和53年6月」

サンシャインシティの開業と同じ1978年に建立されています。建物が完成し、新しい街が動き出す年に、この場所で何が起きたかを刻んで残した。その時系列に、この碑を建てた人たちの思いが込められています。

処刑場跡が公共の遊び場になるまでの社会的な変化

石碑のある場所に手を合わせに来る人は、今もいるそうです。訪問者の記録を見ると、12月23日(処刑執行の日)に合わせて訪れる人もいます。

石碑はサンシャインシティの建物に背を向けるような形で、公園の隅に建っています。派手な施設に隣接しながらも、静かに存在し続けている。何十年もの間、すぐそこでショッピングやレジャーが行われながら、この碑だけが動かずにいる。

跡地が商業施設と公園になること、そこに記念碑が置かれることが「正しい使い方」かどうかは難しい問いです。ただ、碑がなければこの場所が何だったかを知る手がかりはほぼなく、碑があることで訪れる人が今もいるという事実は確かにあります。

鬼子母神・雑司が谷霊園・サンシャインを結ぶ「三角形」の話

「サンシャインシティ、鬼子母神、雑司が谷霊園の3点を地図上で結ぶと正三角形に近い形になる」という話がXやSNS上で語られています。この三角形が「結界」として機能しているという解釈です。

XやSNSで語られる「結界説」の地理的な根拠

地図上で確認すると、3つの場所は確かに池袋〜東池袋エリアの中に比較的均等な間隔で配置されています。鬼子母神は安産や子育ての神として知られる古社。雑司が谷霊園は夏目漱石や小泉八雲など著名人が眠る都立霊園です。

「霊的に強い場所(神社・霊園)で、歴史的に強いエネルギーが集積した場所(処刑場跡)を囲む」という解釈でこの三角形が語られています。

ただし、これは地図の見方と3点の選び方によって成立する構図です。東京の都市部に神社と霊園は多く、特定の建物を起点に「三角形の頂点を探す」という手順を踏めば、それらしい配置は比較的作りやすい。結界説を完全に否定するわけではありませんが、意図的な設計として証明できる根拠は現時点では見当たりません。

江戸時代から続く「霊的な場所」の積み重なり

ただ、この一帯が古くから「普通ではない場所」として扱われてきたのは事実です。

鬼子母神の創建は室町時代にまでさかのぼり、江戸時代には庶民の信仰を集めた場所でした。雑司が谷霊園は明治期から続く都市の中の墓地で、都内でも有数の歴史と規模を持ちます。そこに明治以降の拘置施設、GHQ接収後の処刑場、そして再開発による大型商業施設が加わった。

「意図して配置した結界」と証明することはできませんが、神社・霊園・処刑の歴史を持つ場所が近接するエリアとして、この一帯の密度が高いことは確かです。都市の再開発がいくら進んでも、土地が持つ層の厚さは消えないという感覚は、池袋東側を歩くと少し感じ取れます。

まとめ:地下に何があるかより、地上に何を建てたかの話

サンシャインシティの地下変電所の謎は、現時点では「確認できない」という結論になります。地下3階の謎空間もエレベーターの隠しフロアも、外から見える事実として存在しますが、その中身を公式に知る方法はありません。

一方で、この場所の地上の歴史は明確に記録されています。A級戦犯7名とBC級戦犯54名が処刑された場所に、日本一の高さのビルと年間3000万人が訪れる商業施設が建った。石碑は公園の隅に今も立っています。

地下の謎よりも、地上で起きた歴史の方がよほど重い。それでも人は地下の謎に惹かれる。サンシャインシティという場所が持つ引力は、その両方が重なっているからかもしれません。池袋に行く機会があれば、東池袋中央公園の石碑に立ち寄ってみてください。「永久平和を願って」という言葉が、あの場所にひっそりと刻まれています。

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